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深夜にふと語りたくなったことを書いていくブログ

僕は無償の善意は支持しない、あなたはどうですか?

僕の会社では、定期的にボランティア活動がある。

会社主催の従業員の労働力を搾取するのである。会社に入るまで、ボランティアや募金とは無縁の生活を送ってきたので、抵抗が大変あった。

 

僕は、そもそも「無償の善意」的なものは嫌いだった。募金活動やボランティアは、偽善者がやるものだと思っていた。

 

例えば、募金を募る人は、本当に募金をしたいなら人から搾取するのでは、自分や親類の財産を切り崩せばよい。それを自発的に募金をしない第三者に対して呼びかけをして、自己陶酔している、と思っている。

 

小学校の頃の赤い羽根募金についても、そう思っていた。この赤い羽根を作る金と工数があれば、それも募金すればいいのに、と。それが僕の認識だった。なぜ誰も必要とせず1時間でゴミと化すような羽根を配るのだ。ゴミの消極費用が余分にかかるだけではないか。

 

今でも、根本的な部分は変わっていない。無償の善意みたいなものは嫌いだ。既に多くの金を税金という形で搾取され、それが誰かの為に使用されている。そういう意味で平均以上の所得の人は、既に多くの金を強制的に徴収されている。日本国内だけでなく外国に対しても、国家公務員の賢い人たち(その変のバカがやるよりはきっといい)が選定した上で、日本国の国益に繋がる形で金がばらまかれている。それで十分ではないか?

 

募金を募る人に言いたい。そこで突っ立っている時間があれば、もっと知的に働けと。君がとても優秀な人材になれば、時給単価が青天井で上がっていき、更に稼いだ金を投資に回すことで、金は倍々ゲームで増えていく。また、金を稼ぐ中で築いた人脈を使って、効率的にばらまくことも出来る。勉強を今からでもいいからしろ、と言いたい。

募金集めで突っ立っている人は、(一番とは言わないが)簡単な手段を取っているだけだ。ただ突っ立って、他人の財布を当てにしている。そして、自己陶酔して、呼びかけをしているように僕からは見える。

 

また、ボランティアに関しても、更によく分からない。そもそもなぜカタカナ言葉なのか。外来語だからか。

日本人はそもそも、近所同士で助け合い文化があった。今はそれが薄れてきている。それは当然だ。みな、相当忙しい。朝から晩まで会社で働いているので、近隣の人と一緒に過ごす時間などないに等しい。顔は分かって、挨拶はしたことがあっても、となりに住んでいる人が、どんな人間性なのかなど、知る由もない。よく殺人事件の犯人が捕まった後の報道で、近所のおばさんが「あの子はきちんと挨拶が出来る感じのよい子でした。」と発言しているのを見る。お前は何を知っているのだ。そもそも、家事しかしていないおばさんに人の良し悪しを判断するチカラがあるのか。まぁ、多くの場合はないだろう。社会の中でも、公式に人を評価したことがない人ばかりだろう。

おばさん批判はこのくらいにしておくが、’無償’というものは、あまり信用しない。募金は、無償の金銭の提供であり、ボランティアというのは、無償の労働力の提供だ。

 

しかし、ここまで批判しておいて何だが、会社のボランティア活動には参加してきた。会社のイベントとして、無償の労働力の提供を強いられたからだ。自己判断で良いという名の、強制参加。しかし、ここで大切なのが、このようなものに参加したか否かが、将来の評価に繋がってくる。協調性のある無しとして。なんとも恐ろしい因果関係だ。

僕はある程度までは出世をしたい。出世しないと、一生こき使われる。自分の意見をあ.る程度でも聞いてもらえる程度には上に上がりたい。なので、ボランティアに参加する。

結局のところ、僕の中で会社のボランティア活動は、無償の善意ではないのだ。将来に対する投資であって、無償の善意ではない。打算である。

そう思えば、ボランティアにも勢が出る。なぜなら自分の為にやっているのだ。他の人が何を思ってボランティアをやっているのか知らない。少なくとも、僕は自分の将来の為にやっている。